竹島氏のブックトーク(2016.6.19)

竹島氏のブックトークはとても刺激的でした。少し長いですが、以下のような内容でした。ありがとうございました。

 国民学校1,2年生の頃、我が家に本があった記憶がない。疎開先で荷ほどきをしたら、父の本が三冊出てきた。『小林一茶俳句集』、国学の頼山陽の本と潜水艦の本だった。頼山陽は関心の外だったが、潜水艦の本と一茶の本は繰り返し読んだ。それしか本がなかったからである。しかし、疎開先の農家の納屋にたくさんの本があって、許しを得て読むことが出来た。立川文庫の講談本だった。猿飛佐助は実在の人物と思うほどのめりこんで読んだ。高校時代は岩波文庫(赤帯)の外国文学をほとんど読み尽くしたが、ゲーテは読みにくい。自分が噛み砕けないものは飲み込めないものだ。
 古典をしっかり読んでおくことは大切なことではないかと思う。歴史の篩いに耐えてきた書物には力がある。マルクスを読んでいてのピケティだ。音楽はバッハに始まってバッハに終わる。そうでなければ、ベートーベンもモーツァルトも現代音楽もない。
 長く日本文学には興味を感じられないでいたが、それをひっくり返してくれたのが永井荷風だった。彼はフランスのエスプリを学んでいた。荷風は、日本文学の最高峰であろう。
 ある年、神田の古書市で永井荷風の全集が1万円で売られていた。この古書市は世界に冠たるフェストだが、こんな値段で売られているのが驚きでもあり、悲しくもあった。
 43歳で道元の『正法眼蔵』に出会って衝撃を受けた。それは、「あなたと仏」という超個人主義に貫かれた実存主義哲学だった。このような書物が、サルトルはもとよりニーチェよりもはるか昔に書かれていたのだった。『正法眼蔵』は、西洋かぶれの私に東洋の深遠な知恵に目覚めさせてくれただけでなく、道元の文章は音楽のように美しく心に響いた。我が国がこの世界観を持っていれば、世界における西洋文明の行き詰まりを調停できる国になれるはずだった。だから、この国の今が、惜しい。
 ふくしま本の森を初めて訪れたとき、均一な質の適切な量の本が整然と配架されているのに驚いた。そして一冊の本に呼び止められた。『カザルス 喜びと悲しみ』だった。私はこの本の存在を知らなかったが、ときめきながら読んでみると、とんでもない本だった。私はその日の朝、カザルスのチェロによるバッハの「無伴奏ソナタ」を聴いてから、会津に向かって車を走らせてきたのだった。カザルスが毎朝ピアノでこれを弾いていたように。
 山峡の会津の民間の図書館で、こんな本に出会うとは。
 驚きは続いた。翌日、遠藤さんが「よかったらこれもどうぞ」と、彼女が途中で投げ出したという『カザルスとの対話』という分厚い本を自宅から持ってきてくれた。これは、『カザルス 喜びと悲しみ』の種本というべき内容だった。
 帰京してから古書店に頼んで、本の森から借りた同じ本を手に入れ、弟に貸した。弟はその本をドイツに行く若い指揮者に持たせたという。更にアマゾンで同じ本を三冊求めた。
 カザルスは言う。「すべての源泉は海にある。音楽の海はバッハである」と。
 よい書物は、よい連鎖反応を広げることができる。ふくしま本の森で見つけた一冊の本は、今、ドイツで旅をしている。
 本は、読む人があって「本」となるのだと思う。